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<<   作成日時 : 2005/08/19 04:07   >>

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icon チョイ直しものをひとつだけというのも何だかなということで、「私が変われば世界も変わる」ということで、過去に書いたものをもう一本、チョイ直しでつけときま〜す。

 以前、Apple Computerのキャンペーンで「Think Different」というのがありました。テレビコマーシャルも印象的だったのですが、何よりもそのキャッチコピーの一節が印象深いものでした。
 その印象深かった一節とは、「自分が世界を変えられると本気で信じる人たちが、本当に世界を変えているのだから」というものです。私はそれを目にして「確かにその通りだな」と深くうなずいたものでした。

 この言葉にある通り、私が変われば世界は変わるのです。これは、ウソでもきれいごとでもありません。世界の変化は、まずその人から始まります。そうして、変わらないと諦めている人は、世界を変えることもできなければ、己れ自身を変えることもできないのです。
 「世界」とは、どこかにあるものではありません。それは、今、ここにあるものであり、私自身を含めての「世界」です。
 ですから、「自分が何かをしても、『世界』は変わらない」と思っている人は、自ら「世界」からの疎外を望み、それを受け入れてしまっているのです。なぜなら、その私自身こそが、まさにこの「世界」の一部であり、一構成要素であるのですから、私の変化は同時に「世界」の変化でもあるのです。
 確かに、私が変わったとしても、その変化は「世界」全体から見れば、本当に小っぽけな変化です。しかし、そこで自分を含めた「世界」が変わったことは、紛れもない事実です。そのことを認められない者は、先に述べた通り、自ら「世界」からの疎外を受け入れているのであり、そこから生まれてくる孤独と不安と満たされぬ思いにさいなまされることになります。
 大切なことは、「世界が自分に何をしてくれるか」ではなく、「私が世界に何をするのか」であり(ここ、パクリ入ってま〜す)、「まず自分はどうするか」ということです。「世界」を変えたければ、まず自分自身が変わることです。「私が変わる」という変化が、「世界」が変化することの第一歩であり、私を変えずに始まる世界改革はありません。
 心理学者のC・G・ユングも、『人間と象徴』の中で以下のように述べています。

 何らかの変化がどこかで生じなければならないとすればそれは、変化を体験し、それを持ち続けようとする個々の人である。変化は実際、個人によって始められねばならない。それはわれわれの誰からでもよい。誰も自分自身がいやなことを、誰か他人がするだろうと、まわりを見まわしているようなことはできない。しかし、誰も何をすべきであるかを知らないので、各人の無意識が、何か助けとなるようなことを知っているかどうかについて、たずねてみることが価値あることではないだろうか。確かに意識的な心は、この点に関しては、何ら有用なことをなすことができないようである。人間は、今日、その偉大な宗教やいろいろの哲学が、世界の現在の状況に直面するのに必要な安定性を与え、はげましてくれる力強い観念を、用意し得ないことを残念ながら知っている。
 私は、仏教徒たちがどういうだろうかよく知っている。つまり、人々が仏法の“八正道”にしたがうならば、そして真の自我にたいする洞察を得るならば、物事はうまくいくだろうと。また、キリスト教徒たちは、人々が神を信じさえすれば、われわれはよりよい世界をもつだろう、と言っている。合理主義者は、人々が知的で合理的であるならば、われわれの問題はすべて解決されるだろう、と主張する。しかし、問題なのは彼らの誰もが、問題を自分自身で解決していこうとしないことである。
<『人間と象徴』(河出書房新社/C.G.ユング 他/河合隼雄 監訳)より> 

 こうしたことは、人間関係においても言えることでしょう。自身が変わろうとせずに、相手に変化だけを求めるのは、単なる願望の押しつけにすぎず、そこには一対一の人間関係はありません。そこにあるのは「支配−被支配」の関係であり、相手がその支配に反抗したとしても、それはむしろ当然のことです。

 ただ、「私が変わる」ということにおいて、ひとつだけ気をつけておかなければならないことがあります。それは、私が変わったからと言って、その先に生じる変化が、必ずしもそのときの自分の望み通りのものになるとは限らないということです。そうして、その先において結果と感じられたものとても、実際にはまだ、いや、常に過程の中にあり、ひとつの区切りでしかないということです。
 何が良くて何が悪いか、また、何が正しくて何が間違っているか、こういったことについて、そう簡単に結論が出てくるわけではありません。何かを判断するためには、その判断の基準というものが必要となります。当然、その判断の基準をどこにどう置くかによって、対象に対して下される判断は変わってきます。
 「人生万事塞翁が馬」という諺にもある通り、そのときには良かったと思えるものが、後の不幸の種を孕んでいたり、反対に、不運だと思っていたことが、後の幸せを築く礎となることもあります。前者の場合で言えば、後の不幸ということを判断の基準とすれば、その「良かったと思えるもの」は、実際には良くないものであったとなります。しかし、「良かった」と思っている時点では、それはまさしく良いものと判断されています。
 判断の基準が異なれば、対象に対して下される判断も変わってきます。ですから、そのとき望んでいたことがかなえられなかったからと言って、それを望んだことが誤った選択であったとは、一概に言いきれないのです。たとえ今は受け入れ難く、否定的なものとしてしか受け取れない事実であっても、そのことが、後になってそのときの望み以上の結果をもたらしてくれるかもしれません。
 しかし、そのことは現在の中にいる私には、わかりません。現在の私にできることは、その事実をしっかりと受け止め、その事実へと至る過程を省み、そこにある意味を探ってゆくことだけです。大切なことは、物事を安易に結論づけないことであり、区切りとしての事実を受け止めるにしても、それが持っている意味を多面的に、特にそのプラスの意味とマイナスの意味を捉えてゆくことです。

 私が変われば「世界」も変わるのと同じく、ものの見方ひとつで、「世界」は変わります。それがどんな意味を持っているのかということについて、自ら探ってみることなしには、その意味を見出すこともありません。
 これもまた「Think Different」と呼ぶべきものでしょう。視点を変えて、つまり、判断の基準を変えて、物事を捉え返してゆくのですから。

『人間と象徴(上)』 C.G.ユング、他/河合隼雄 監訳/河出書房新社
『人間と象徴(下)』 C.G.ユング、他/河合隼雄 監訳/河出書房新社

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