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zoom RSS あー、バカバカし

<<   作成日時 : 2008/04/27 23:52   >>

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icon 訪れた世界の各地で騒動を引き起こしている聖火がついに日本にもやってきて、長野でもやはり騒動を起こして立ち去っていきました。

 長野市での聖火リレーは、怒号と混乱をまき散らして終わった。観衆は約8万5600人。多くは中国やチベットの巨大な旗を振ったり、プラカードを掲げたりする人たちだった。98年の長野五輪では、聖火を拍手で迎えた地元・長野市民。その姿が政治の渦にかき消された「市民不在」の18.7キロだった。誰のためのリレーなのか。疑問の声も漏れた。

 ホント、バカバカしい。元々オリンピックなんてものには興味がなく、聖火リレーもどうでもイイことだったけど、今回の聖火リレーに関しては、同じ「バカバカしい」であっても、「どうでもイイ」ことによるのではなく、その醜悪さに辟易しながらのものです。

 今回の聖火リレーは、スポーツの祭典であるオリンピックを象徴するものではなく、単に中国の威信を示すためのものであり、その面子を保つためのものに堕しています。そんなバカげたもののために、どうして各国が協力しなきゃならんのでしょ。
 チベットにおける中国政府による弾圧に対して抗議行動が起こり、聖火リレーがその標的となった。このことに関しては中国政府だけが悪いとするつもりはありません。
 確かに、チベットにおける弾圧は問題です。しかし、その抗議活動として聖火リレーをターゲットとするのは誤りです。たとえ、自由や自治を求める活動に対して弾圧を行い、人権や言論の自由を認めない中国という国家に、オリンピックを開催する資格がないとしても、それを実力で阻止しようとする抗議活動は、結局、中国政府のしていることと変わりありません。
 また、実力行使は中国政府に格好の口実を与えることになってしまいます。歴史を見てもわかるように、強権を発動する弾圧者というものは厚顔無恥の塊、自らのことを棚に上げ、自身に対して実力行使に及んできたものにはいけしゃあしゃあと悪のレッテルを貼り、それを口実により弾圧を強めていきます。今回の聖火リレーに対する妨害活動への中国政府の発言には、容易にそうしたことが見て取れます。

 それだけでも十分に恥知らずだというのに、中国政府はさらに恥知らずなことに、聖火が巡る各国を恫喝する始末。聖火リレーが始まった当初に中国の女性報道官から、「通過国の協力によって、聖火リレーは無事行なわれるものと確信している」というような内容の発言がありました。
 これ、要は「何かあったらあんたらの責任だよ。しっかり警護しな」ということです。自ら火種を撒いておいて、「自分らは何も悪くない。悪いのはあいつらなんだから、火消しはちゃんとしといてよ」って、厚顔無恥の極地です。
 アフリカのスーダンではダルフールにおける虐殺を支援するような活動を行ない、国内でもチベットにおいて弾圧を行ない、さらにこんな発言をするような国家の面子を保つことを目的とした聖火リレーに、いったい何の意味があるのでしょう。
 聖火リレーがとにかく行なわれたという事実欲しさに、各国を恫喝したばかりでなく、青ジャージを着た聖火防衛隊なるものまで送り込んで聖火を警護させる。単に行く先々で騒動が起きているということだけではなく、そのものものしさやそこに見える中国政府の頑なな態度、恥知らずさ加減など、すべてが愚劣にして醜悪。吐き気を催すような気分で「バカバカしい」と吐き捨てるよりほかありません。

 と、これだけでももう十二分に醜悪だというのに、オーストラリアあたりからとみに群れて出没してくるようになった現地の中国人留学生の軍団。これが今回の聖火リレーの騒動に、さらなる醜悪さを付け加えるようになっています。
 確かに、せっかく自国でオリンピックが開催されるというのに、その聖火リレーが快く受け入れられずに妨害され、さらに自国も非難の対象となっているということに対し、自国を擁護したい、気持ち良くオリンピックが行なわれ、成功してもらいたいという気持ちが湧いてくるのは当然のことだと思います。しかし、なぜ自国がそのような非難を受け、聖火リレーを含め、オリンピック開催が祝福されないようになっているかということも考えなければならないでしょう。
 聖火リレーに対する妨害活動に対しては、私も反対です。弾圧を受け、言論の自由がないということを示すのなら、先に書いた理由からも、その通りの状況を示す、静かな抗議の方が効果的ではないかと思っています。
 例えば、拘束着を着て目隠しをするなり、サングラスをかけるなりをし、口には猿ぐつわかマスクをする。この格好で聖火リレーのコースに無言のままずらーっと並んでいれば、それでもう自由がないということは示せるでしょう。大声で叫ぼうが、聖火リレーを妨害しようが、そんなことをしたところで、中国政府に良い口実を与えてしまうばかりか、中国政府の頑なさに拍車をかけてしまうだけですし、それによってナショナリズムを喚起された中国人留学生が、抗議活動家同様、集団で同様の行為に及んだとしても無理からぬことだと思います。
 もっとも、抗議の集団に対抗する形で聖火リレーのコースに中国人留学生が集まり、騒ぐようになったのは、おそらくその中心に中国政府の意を受けたアジテイターがいるからだろうと思っていますけど。
 いずれにしても、「騒動に対し騒動で応える。しかも、個人ではなく集団で、国家やナショナリズムというものを振りかざしてファナティックに」というのは、全体主義や衆というものの愚劣さ、醜悪さをまざまざと見せつけてくれます。
 件の中国人留学生の集団は日本の長野でも一騒動巻き起こしてくれましたが、聖火が次に渡ったお隣の韓国でも、やはり同様に騒動を巻き起こしたとのことです。ただでさえ祝福されていない状況にある北京オリンピックが、自分たちの行動によってさらに良くない状況に陥ってゆくということがわからないのでしょうか。

 大切なものを守りたいと思って行動するのなら、そういうときこそ、より慎重になる必要があります。なぜなら、自らの行動如何によってその大切なものを台無しにしてしまう可能性があるのですから。
 また、言論の自由というものは自分だけに認められるものではありません。言論の自由がある社会では、自身が自由に発言できるのと同様に、相手も自由に発言することが可能です。たとえそれが自らの意にそぐわないものであっても、言論の自由が保障されている以上、相手の意見は相手の意見として認め、理解する必要が出て来ます。それが言論の自由というものであり、公平さというものです。
 自身に賛同する意見は聞き入れ、自らと対立する意見は抑え込む。中国政府がしていることはそういうことであり、そこには言論の自由はありません。言論の自由がなければ人権も保障されません。同様に、聖火リレーの騒動の中で声を張り上げ、声の大きさと暴力によって対立するものの声を封じようとすることも、ひとつの抑圧であり、弾圧であり、言論の自由というものを封殺する行為です。

 今回の聖火リレーの騒動に関して、いずれが悪いかということになれば、まず中国政府ということになるでしょう。しかし、私から見ると、いずれが悪いかということよりもまず、聖火リレー全体を覆うようにして存在している醜悪さばかりが際立っていて、「善悪」ということよりも「美醜」ということの方が考察の基準になってしまっています。

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