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zoom RSS このパンは給食での提供中止になるのかな

<<   作成日時 : 2008/10/22 23:41   >>

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icon 昨日のニュースによると、11月17日に千葉の小学校で小6の男児生徒が給食時にパンをノドに詰まらせ、窒息死するという事件があったそうです。

 千葉県船橋市立峰台小学校(末永啓二校長)で、6年生の男児が給食のパンをのどに詰まらせ死亡していたことが21日わかった。窒息死とみられる。

 普通の人なら、テレビのニュースキャスターやコメンテイター同様、「痛ましい事故」だとして「かわいそう」と感じるのかもしれません。でも、あたしゃ、普通という枠組みからは外れている人間、「痛ましい」とも思わなければ、「かわいそう」だとも感じることはありませんでした。
 お調子者がパンを一気に口の中に入れ、それで窒息死した。それのどこがかわいそうなんでしょう。無理強いされたとかなら話は別です。でも、自分の意志でそれを行なったというのなら、そんなものは自業自得です。
 にもかかわらず、それを「痛ましい」だとか「かわいそう」だとかする。そうした精神の土壌が、こうした事故を生み出しているということがわからないのでしょうか。

 危険というものがそこかしこに転がっているにもかかわらず、「これは危ない」「あれも危ない」だとか言って、目につきやすい危険に覆いをかけ、それで良しとする。だけど、危険と出会う主体の教育は置き去りのまま。そんなウソっぱちの無菌状態で育てられた人間が、どうして危険に対する意識や、それに対処する心構えを持てるというのでしょう。
 しかし、そうやって甘やかされて来た人間が事故にあえば、たとえ本人の意識や行動に問題があっても、「かわいそう」だとかいう胸クソ悪い感情が吐き散らされ、「危険となりうるものを放置してきた側が悪い」とされる。甘やかしているだけではいつまで経ってもバカはバカのままです。
 やさしさのない厳しさはいたずらに他者を傷つけてゆきますが、厳しさのないやさしさは他者や世界を腐らせてゆきます。自らに対する厳しさを持たないやさしさの行使は、特にそうです。
 なぜなら、自らに対する厳しさを欠いたやさしさというものは、自らの中にある感情を自ら背負いきれず、他者にやさしさを施すことでその解消を図っており、結局のところ、それは相手のためを思ってではなく、自分自身のためになされるものだからです。さらに始末に負えないことに、本人はそのことを理解しておらず、「自分は良いことをしているのだ」と、その偽りのやさしさを施すことに対して何らの反省も抱かず、自らへのやさしさのために相手を利用し、ますます相手をダメにしてゆきます。

 パンを大きな塊のまま頬ばれば危険だ。そんなことは小6にもなれば、持っていて当然の意識です。それまで生きてきた中で、何かをノドに詰まらせそうになったという経験はなかったのでしょうか。また、知識としてそういうことは教わってこなかったのでしょうか。
 また、パンを大きな塊のまま頬ばるということには、危険に対する意識ということ以前に、食べるということに関しての大切な意識が欠落しています。
 ものを食べる、もっと正確に言えば、ものを食べられるということには、多くの人が関わっています。食材となるものを作ったり、獲ったりしてくれた人。それを運んでくれた人。調理してくれた人。そうした人たちの働きがあって、初めて給食なり何なりの料理として自分の前に出され、それでようやくそれを食べることができるのです。そうして、加工されたり、調理されたりして、姿形は変わってしまっているけど、食べ物の元となっているのは、すべて命あるものとして存在していたものです。
 そうした意識が心の中に根づいているのなら、食べ物に対してはもちろんのこと、ものを食べられるということそれ自体に対しても、感謝の念というものを抱いているはずです。それならば、どうしてパンを大きな塊のまま頬ばるなんてぞんざいなことができるのでしょう。

 今日のニュースを観ていたら、父親が事故が起きた際の詳細を聞きたいとインタヴューで述べていました。父親の心境としては当然のことなのかもしれません。しかし、そのインタヴューの中で「早食い競争がどうたら」とかいうことも言っており、「ひょっとして悪者探し?」なんてことを私は思ってしまいました。
 自分の子供がどのようにして事故を起こしたのか、そのことをただ知りたいというのなら、それは当然のことだと思いますし、私も理解できます。ですが、悪者探し、原因探しなんてことだったら、止めておいた方がイイと私は思います。
 原因探しをしてみたところで、気持ちの整理なんかつくはずはないし、誰かをスケープゴートに仕立て上げて「あいつが悪い」とすることになるか、自ら袋小路にハマり、自分を責め続けることになるだけです。
 冷淡な意見ですけど、誰が悪いかを言ったら、そうやってパンを頬張って食べたその子自身が悪いとしか言いようがありません。もちろん、それは受け入れられないでしょう。そうなれば、「では、その子が頬張って食べるなんてことを行なう要因を作ったのは誰か」ということになり、担任の監督責任を問うか、制止しなかった周囲の子供たちにババを押しつけるか、そんな食べ方をする子供に育ててしまった自らを責めるか、そういうことにならざるをえなくなります。

 子供ひとりがなくなったということを思えば、私も死者を鞭打つようなことなんか言いたくありません。特に、両親のことをおもえばなおさらです。ですが、今回の事故を「痛ましい」だとか「かわいそう」だとかいうことばで括ってしまうことはできないし、そう思う気持ちもありません。
 今回の事故をいつもどおりに「痛ましい」だとか「かわいそう」だとかということにしてしまえば、これからも同じことが繰り返されるだけです。マンナンライフの「蒟蒻畑」はメーカーが製造中止にしてしまいましたが、「蒟蒻畑」を製造中止にしてみたところで、今度はパンで同様の事故が起き、これから先も餅などで同じようにノドに詰まらせ、死んでゆく人が出るのは間違いありません。
 また、これは何も食べ物をノドに詰まらせるということに限った話ではありません。「危険」というものに対する意識とそれに対する接し方が変わらなければ、いつでもどこでも起こりうる話です。なぜなら、危険なんてものは身近にいくらでも転がっており、目につくものだけに覆いをかけたところで、決してなくなるなんてことはありえないのですから。

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