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zoom RSS その一線を越えた先には?

<<   作成日時 : 2008/03/25 23:48   >>

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icon 昨日、何の気なしに朝日新聞のサイトを見たら、以下のような記事が出ていました。

 06年12月に東京都渋谷区の歯科医師宅で女子短大生(当時20)が殺害され、遺体が切断された事件で、殺人などの罪に問われた兄の武藤勇貴被告(22)の精神鑑定結果が24日、東京地裁(秋葉康弘裁判長)で開かれた公判で明らかになった。弁護側が申請した鑑定医は遺体切断時の精神状態について、「被告の中の別人格が現れていた」とし、「責任能力がなかったと考えるべきだ」と述べた。

 一方殺害時には、意識障害や自分の行動を意識できなくなる状態となり、「内面に隠れていた攻撃的な感情が突出した」と説明。捜査段階などの供述については「記憶はほとんど残っておらず、質問に合わせていた」と述べ、善悪に基づいて行動する能力が「著しく限定されていた」と指摘した。

 この記事を読み、私は「またか」という思いを感じざるをえませんでした。猟奇的な事件が起きると決まって精神鑑定が行われ、心神喪失もしくは心神耗弱という結果が出て罪が減免される。この事件に関してはまだ判決は出ていませんが、こうした事件にお決まりのパターンに入っているのは確かです。
 行為者に責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないという責任主義に基づく法が存在し、運用されている以上、弁護人がそこにつけ込んで精神鑑定を要求し、被告人の刑の減免を狙うのは仕方がないことなのかもしれません。しかし、弁護人側の精神鑑定と検察側の精神鑑定が食い違うことがあるように、責任能力の有無ということに関しての判断にはブレがあります。また、何をもって心神喪失や心神耗弱とするのか、その判断基準すら曖昧です。
 にもかかわらず、少しでも猟奇的な事件となれば、決まって精神鑑定が要求され、心神喪失とまでは行かなくても、心神耗弱との判断が下される。私にはおかしなこととしか思えません。

 責任能力があったのか否か、言いかえれば、一般的に普通と認められる精神状態にあったのか、それとも心神喪失や心神耗弱と認められるような異常な精神状態にあったのか。こうした線引きを考えると、両者の間には質的な差異があるように思われます。しかし、実際には、両者の間にあるのは質的な差異ではなく、量的な差異です。通常の状態ではある一定の幅に収まっている心的要素が、適正値を超えて拡大化・肥大化している状態、これが異常な精神状態です。後はそれが一時的なものであるか、常態化しているかです。
 正常と異常との間にある違いが質的なものではなく、量的なものであるからこそ、その判断基準も曖昧なものとなり、鑑定人によって判定が異なってくるということも起きるのです。殺人ということに関して精神状態に質的な差異があるとするなら、それは殺人を犯すか否かという一点においてのみだと私は考えています。
 一般の人であっても、人を殺してやりたいと殺意を抱いたことは一度くらいはあるでしょう。また、想像の世界の中で人を殺し、自分の中にある怨みつらみを晴らすこともあると思います。実際に「どう殺してやろうか」と殺人計画まで立てたことのある人もいるかもしれません。
 しかし、ほとんどの場合、現実の世界で殺人を犯しはしません。もし殺意を抱いた側から人を殺してしまうような人ばかりだったら、そこら中に死体が転がっていることになってしまうでしょう。
 たとえ殺意を抱いたとしても、たいていの場合は殺人とまでは至りません。そこまで至るほど殺意が強くなかったのか、人を殺すだけの勇気が持てなかったのか、善悪の判断からそれをしなかったのか、くだらない人間のために人生を棒に振りたくなかったのか、殺人を犯さなかった理由はさまざまでしょう。しかし、殺人を犯すという一線を越えなかったことだけは事実です。この一線を越えるか否かは大きな違いです。
 この一線を越えなかった人にとっては、殺人事件の報道があった際、あまりに頻発する事件に感覚がマヒしていなければ、その事件内容や動機を見聞きして、「どうしてそこまでできるのか?」とか「そんな理由で?」など、その殺人事件に対して疑問を感じるはずです。そうした疑問を感じることが、その一線を越えるか否かの質的な差の現われです。
 その一線を越えた先に何があるのかは私にはわかりません。私もその一線を越えられない埒内の人間ですから。しかし、たいていの人が越えられないその一線を踏み越えてしまうということは、その時点で普通の精神状態ではなかったと言うことができます。ですから、殺人を犯すということは、もうすでに通常の精神状態ではなく、心神喪失とまでは行かなくとも心神耗弱の状態にはあると言うことができます。

 もちろん、これは精神科医でもなければ法曹界の人間でもない素人の考えです。しかし、その一線を越えられない私からすると、その一線を越えた人に関して、そうした専門家たちが責任能力の有無だとか何だとか言って、やれ心神喪失だの心神耗弱だのを争っているのは、奇妙なこととしか映りません。質的な差があるのはその一線を越えるか否かであって、その一線に越えた先にあるのは程度の差、つまりは量的な差でしかないと私は思っていますから。
 そのため、心神喪失だの心神耗弱だのを言い出したらきりがないとまで思っています。殺人を犯した時点ですでに通常の精神状態ではないのですから、その取っ掛かりさえあれば、心神喪失とまでは行かなくても、心神耗弱ぐらいの判定は出せるでしょう。
 また、責任能力の有無ということに関して良く出て来るのは「善悪の判断がついたか否か」ということですが、善悪の判断がつくぐらいなら殺人など犯しはしません。善悪の判断がつかない、もしくは善悪の判断を越えた状態にいるからこそ、人を殺すことができるのです。善悪の判断はついたが自らの行動を止めることができなかったというなら、それもまた心神耗弱の状態と言えるでしょう。普通なら、理性の力によって行動を止めることができるのですから。

 こうした考えからすると、責任能力の有無や心神喪失、心神耗弱などということを持ち出したら、それこそ殺人罪に問えるのは、人一人を殺し、その罪の意識を抱いて後悔している、殺人を犯したということを除けば善良な心の持ち主か、それとは逆に、殺人が悪であることはわかっていながらも、冷静に人を殺してゆける人間のいずれかでしょう。善悪の判断、責任能力の有無なんてことを考えたら、そういうことになります。
 もちろん、これは極論です。ただ、単に人一人を殺しただけなら責任能力だとかいったことは問われず、少しでも残酷な殺し方をしたり、わけのわからない理由で無差別に人を殺したりすれば、責任能力ということが持ち出されて精神鑑定となり、刑が減免される可能性が出てくる。こうした流れは、どう考えてもおかしいです。
 殺人という一線を越えたことには変わりないのに、その一線を踏み越えたすぐその先で立ち止まり後悔している人は罪に問われ、その一線を踏み越え行けるところまで行った方は罪を減免される。その一線を越えたことのない私には、同じくその一線を踏み越えたことのない専門家が、その先に線引きをし、その罪を裁くということに疑問を抱かざるをえません。
 殺人という一線を越えたことのない私には、その先がどうなっているかはわかりません。もしかしたら、その一線を越えた先にも越えることの困難な壁があるのかもしれません。
 しかし、その先がどうなっているにせよ、現在の趨勢からすると、その一線を踏み越えてしまったら、立ち止まらず、行けるところまで行ってしまった方が罪が減免される可能性は高いというおかしな状況になっていることは確かです。
 同じ殺人を犯すなら思いっきり残忍に、できれば死体を切り刻むなり、姦淫するなりし、ついでに他にも何人か殺しとく。飲酒運転同様、ここでもやっちゃったもん勝ち、行っちゃった方が得という納得のゆかないことになっているようです。

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