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<<   作成日時 : 2008/04/22 23:56   >>

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icon 1999年に山口市光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決が出ましたけど、弁護団の目論見は見事にハズれ、被告に対し死刑判決が下されました。

 山口県光市の母子殺害事件で、殺人と強姦(ごうかん)致死、窃盗の罪に問われた元少年(27)に対する差し戻し控訴審で、広島高裁は22日、無期懲役とした一審・山口地裁判決を破棄し、死刑の判決を言い渡した。楢崎康英裁判長は「強姦と殺人の強固な意思のもとに何ら落ち度のない母子の生命と尊厳を踏みにじった犯行は、冷酷残虐で非人間的と言うほかない」と述べた。さらに「虚偽の弁解を展開して罪と向き合うことを放棄し、遺族を愚弄(ぐろう)する態度は反省とはほど遠く、死刑を回避するに足る特段の事情は認められない」と判断。一審の事実認定に誤りはないが、量刑は軽すぎると判断した。元少年側は上告した。

 検察側は死刑を求め、弁護側は傷害致死罪の適用による有期刑を求めていた。

 楢崎裁判長は主文の言い渡しを後回しにし、判決理由の朗読から始めた。まず、新弁護団がついた上告審の途中から、元少年側が殺意や強姦目的の否認を始めた経緯を検討。「当初の弁護人とは296回も接見しながら否認せず、起訴から6年半もたって新弁護団に真実を話し始めたというのはあまりにも不自然で到底納得できない」と述べ、「死刑を免れることを意図して虚偽の弁解を弄(ろう)しているというほかない」と新供述の信用性を否定した。

 そのうえで、元少年側が「被害女性の首を両手で絞めて殺害した」との認定は遺体の鑑定と矛盾し、実際は右手の逆手で押さえつけて過って死亡させたものだとした主張を退け、「そのように首を絞めた場合、窒息死させるほど強い力で圧迫し続けるのは困難であり、遺体の所見とも整合しない」と判断。「殺意に基づいて両手で絞めたのは明白」とする検察側の主張を認めた。

 また、被害女性に母を重ねて抱きついたとする元少年側の「母胎回帰説」を「被害女性を殺害して姦淫(かんいん)した犯行とあまりにもかけ離れている」と否定。「姦淫することで生き返らせようとした」との主張も「荒唐無稽(こうとうむけい)な発想」と一蹴(いっしゅう)し、「性欲を満たすため犯行に及んだと推認するのが合理的だ」と述べた。被害女児の首にひもを巻いて窒息死させたとの認定にも誤りはないとした。

 死刑判決が下されたことを良かったとは思いませんが、仮釈放ナシの終身刑が日本に存在しない以上、無期懲役などという曖昧な刑罰が下されなかったことは良かったと思っています。私は人道なんてものは信じちゃいないし、他者の生きる機会と権利を奪った者に対し更生の機会を与えるなどということに関しても大きな疑問を持っています。
 そもそも何をもって「更生」と考えるのでしょうか。人を殺した罪の重さを認識し、それを背負い続けて生きてゆくことでしょうか。
 もしそうだとしたら、殺人を犯した者は他者の生きる権利を奪った自分が生き続けているという答えの出ない葛藤の中に置かれることになります。殺人という贖いきれぬ罪の重さを背負い続けてゆく、それは自らの生が重くなればなるほど余計に重くなっていきます。
 果たして人の心はその罪の重さに耐えられるものなのでしょうか。どこかでその葛藤に折り合いをつけてしまうなどということはないのでしょうか。
 殺人を犯した者の「更生」とはいかなるものなのか、人道主義などという怪しげなお題目を元に死刑廃止を唱えるのはイイけれど、その答えを示すこともなく、ただ死刑廃止を唱えるだけというのは無責任と言うよりほかありません。そうして、それは人道主義などというものに基づくものではなく、単に己が心酔している信条を貫き通したいという我欲によるものです。

 目的は手段を正当化しないにもかかわらず、自らが信ずる「正しい目的」を成就するためには、その手段もまた正当化されると思い込み行動してゆく。主義や信条に心酔し、それに捕らわれている人間は、自らに対し正当な批判をなすことができず、実に簡単にそうした間違いを犯してゆきます。
 人はつくづく「性善」なるもので、悪に対しては激しく抵抗するのに、善なるもの、正しきことに対してはからっきし抵抗力がなく、すぐさまその魔力に引きずり込まれ、取り憑かれてしまいます。こうなると、最も手のつけようのない人間が生まれることとなります。
 そうした人間が引き起こす愚行や悪行は、悪しき目的に基づくもの以上の被害を生み出します。何しろ自分は「正しさ」に基づいて行動しており、それは何ら非難されるものではなく、それどころかむしろ称賛されるべきものだと純真にも信じ込んでしまっているため、他者からの批判を聞くことはもちろん、自らの行動を省み、自身の行動に歯止めをかけるということさえできなくなっているのですから。
 行為の主体となるのはその人自身です。その主体であるはずの自分自身が、「正しさ」に取り憑かれ、自らの行動を省み制御することができなくなれば、あとはその「正しさ」に操られた「誰かさん」が暴れ回るようになるだけです。そうして引き起こされる行為が愚かなものとなるのは自明のことです。「母胎回帰説」などいう愚かしいお伽噺も、そのひとつの例でしょう。

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