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zoom RSS 大山鳴動鼠一匹

<<   作成日時 : 2009/03/25 23:52   >>

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icon 拘置期限の切れる昨24日、小沢一郎民主党代表の公設第一秘書の大久保隆規容疑者が、収支報告書に虚偽の記載をしたということで政治資金規正法違反の罪で起訴されました。

 準大手ゼネコン「西松建設」から民主党の小沢代表の資金管理団体「陸山会」への違法献金事件で、東京地検特捜部は24日、小沢代表の公設第1秘書と会計責任者を兼ねる大久保隆規(たかのり)容疑者(47)が、同社の献金計3500万円を収支報告書に虚偽記載したとして、政治資金規正法違反の罪で起訴した。特捜部は、他の不正資金の解明のため、捜査を継続する方針だ。

 マスコミ報道によればこれで西松建設の違法献金事件には一段落がついたとのことですが、「これで一段落? バカバカしい」と吐き捨てるよりほかありません。あれだけの騒ぎを起こしておきながら、小沢一郎への事情聴取もなければ、大久保被告が他の罪にも問われることもナシ。漆間官房副長官の予告通りに、自民党議員に捜査が波及することもありませんでした。
 ホント、今回の公設第一秘書の逮捕劇はいったいなんだったんでしょうね。小沢一郎だけをターゲットにし、他は不問。逮捕に及んだ理由も「悪質性」という曖昧なもの。
 企業がダミーの政治団体を通じて政治献金を行なうのは違法行為ではあっても、政治家が政治団体から献金を受けることは違法行為にはならない。たとえそれがダミーの政治団体であっても、その政治団体を通じて献金されたものであれば、政治資金収支報告書にその通りに記載する。しかし、今回の検察の論理では、これは虚偽の記載になる。かと言って、仮にその政治団体がある企業の隠れ蓑であることを知っていたにしても、ダミーの政治団体の代わりにその企業名を書けば、これまた虚偽の記載をすることになる。
 無論、企業から政治家個人への献金は禁じられているから、そんなことを書くわけはありませんが、政党に対してバックに企業が控えている政治団体からの献金がなされている場合は、いったいどうなるのでしょう。企業から政党への献金は違法ではないのですから、ダミーの政治団体を通していたとしても、そのダミーの政治団体を記載しておけば問題ナシとなるのでしょうか。それならば「虚偽の記載」ということは、いったいどうなってしまうのでしょう。
 もちろん、「そんなものは詭弁だ」と言われればそれまでですし、ダミーの政治団体を通して政治献金を受けることは、違法行為にまでは至らなくても脱法行為です。しかし、法の不備をついた脱法行為があったとしても、法の範囲内で検挙するのが検察の役割です。拡大解釈によって法の適用範囲を広げ、「悪質性」などという恣意的な判断で逮捕・起訴するのは検察の役割を越えています。法の不備を正すのは立法の役割です。特に今回の場合、小沢一郎だけを標的にしていることは間違いなく、他に献金を受けていた自民党の議員は不問というのですから、その「悪質性」という判断が恣意的であるという謗りは免れません。
 おまけに、立件できたのも逮捕理由となった虚偽記載による政治資金規正法違反のみ。同じ政治資金規正法違反でも、収支報告書に記載されていないヤミ献金があったとかいうのならまだしも、虚偽記載というチャチな罪状で、公判で有罪にもっていけるかどうかも怪しい。背後に西松建設が控えているダミーの政治団体を通して献金を受けていたというのなら、収賄罪などまでもっていけなければ、「それじゃあ、西松建設はどうして献金をしていたの?」という疑問は残ったままであり、小沢一郎に対する灰色の印象をいたずらに広げただけで、曖昧なグレーの霧を残したまま収束させたのでは、小沢一郎に対しても、国民に対しても、あまりに無責任です。

 と、西松建設の違法献金事件に関しては、検察のやり方に疑問と不信、ふがいなさを感じたけれども、それ以上にひどかったのはマスコミ。噂話にすぎないものを臆面もなく次々と垂れ流し、ダーティ小沢一郎の印象を広げ、強めることに大きな役割を担っていました。
 まったく、どこの誰だかわからない人物からの談話やら証言やらをこぞって垂れ流し、ニュース番組は単なるワイドショー、新聞もすべてがタブロイド紙。日テレの「真相報道バンキシャ!」が裏づけのない証言を放映したことが問題となったけど、一番組がやれば問題となることも、各局・各番組がやれば問題とはならない。ホント、ひどいものです。
 テレビや新聞などで流されていた証言などが事実であるのなら、検察も少なくとも大久保容疑者のひとりぐらいは収賄罪などで立件できているはずでしょう。談合の調整を図っただとか、便宜供与を行なっていただとかという証言が出ていたのですから。検察が立件しないのであれば、あれだけの証言があって裏がちゃんと取れているのなら、告発だって可能です。しかし、実際にはそういったことにはなってはおらず、マスコミの報道もまた検察の行動と同様、小沢一郎のダーティな印象を広め、強めただけです。
 一方、同じく西松建設から政治献金を受けていた自民党の議員に関しては、おまけ程度にしか報じない。そうした政治献金に対してまつわることはなかったかなどについて、切り込んでゆく報道はなされず、噂を垂れ流されるのは小沢一郎ばかり。
 今回の事件に関して、マスコミの報道でわずかでも意味があったのは、漆間官房副長官がうっかり漏らした「自民党に波及する可能性はない」という発言を報じたことぐらい。だけど、それも本人が「記憶にない」だとか「真意が伝わらない形で報道された」だとかという愚にもつかない釈明をしたら、はい、オシマイ。
 記者クラブなんてものがある以上、マスコミは政府の提灯持ちにしかなれないのだから、「所詮はそんなもの」なんだけれども、そんなチンケな提灯持ち連中が正義面して正論らしきものを吐き散らかしているのは、実に不愉快。胸クソ悪くて仕方がありません。

 ホント、今回の西松建設の違法献金事件は、大山が鳴動し、そこら中から灰色の臭そうな煙が広がったけれども、ちっちゃな鼠が一匹ちょろっと出て来ただけ。しかし、小沢一郎と民主党に打撃を与えるには十分でした。実際、ニュース番組の街頭インタビューで「そんな献金をもらっていたのは許せない」だとか、「民主党に失望した」だとかいう意見が出ていました。
 まあ、これもまた、マスコミの世論操作の一環かもしれず、どこまで信頼できるかどうかわかりません。しかし、もしこんなお目出度い人たちが多数を占めているとしたら、あたしゃ、ホント、アタマ痛いです。

 この前の記事でも書いたように、企業や団体からの献金で問題となるのは、それによって便宜供与などの見返りがあったかどうかです。それがないのであれば問題はナシです。また、献金を私的に流用したり着服したりするのではなく、政治資金として正当に使用したのであれば、これもまた問題ナシです。
 にもかかわらず、安っぽい正義感からなのか、それもとやっかみなどのくだらない感情からなのか、単に多額の政治献金を受けていたことをもって「許せない」などとするのは、愚かしいことです。そんな愚かしさを持っていたのでは、政府やマスコミによる印象操作にもころっと引っかかってしまい、すぐさま立派な衆愚が出来上がります。
 もちろん、ダミーの政治団体から政治献金を受けていたことは、たとえ違法行為とはならない脱法行為であっても決してほめられたことではありません。しかし、なぜそうした規制法が生まれたのかということを考えれば、問題となるのは、献金を受けたことで献金元に対して有利になるようなことを働いたかどうかであり、受けた献金をどのように使ったかです。
 そうしたことを見ずに単に献金を受けていたことをもって、「許せない」だとかいった感情を抱くのは間違いです。また、企業や団体の献金が今回の件のようなグレーな状況を生み出しているのならば、そうした献金を一切禁ずるようにすべきであり、その方向性を政策として打ち出している議員や党を支援してゆくことです(そうしたことを考えると、昨日、公設第一秘書が立件されたことで民主党内部から小沢一郎の代表辞任を求める声が上がっている点には注意が必要です。今回の件で小沢一郎は企業・団体による政治献金の全廃を打ち出そうとしており、それが実行に移されれば、民主党内部にも困る人間が出て来ますから)。

 私は政治家なんてものは人間のクズで信頼に足る人間ではないという思いを持っています。ですから、今さら「政治不信」なんてことを聞いても、「何を今さら」としか思いません。
 人は弱いもので閉塞した状況下になると、それを打破してくれるような「天才」や「英雄」といったものを期待するようになってしまいます。しかし、それは多大な危険性を孕んでいます。
 そうした心理下では、「天才」や「英雄」を体現してくれるやもしれない人物が出て来ると、その人物に対して過度の期待を抱くようになります。そうして、その人物がわずかでも期待を叶えてくれると、それに心酔し、自らを投げ出してその人の言うことやることはすべて正しいとして、その人物に隷属するようになってしまいます。これがどんなに危険なことかは、アドルフ・ヒトラーの存在を見れば明らかでしょう。
 現代では個人に対してそこまでの投影がなされる危険性は少ないでしょうが、その危険性がなくなることはありません。また、投影の対象が個人であるとはかぎりません。それは組織であることもあれば、思想や宗教的な教義である場合もあります。
 先ほど「民主党に失望した」という意見があったことを書きましたが、その人も民主党に対して多大な期待を抱いていたわけではないと思います(と言うか、思いたい)。しかし、現在のように経済の低迷が身に迫り、将来に対して不安しか抱けないような状況下になると、ともすれば何かに対して大きな期待を抱きたくなってしまいます(野球人気が落ちつつある状況下で、突如としてWBCに対して過度とも思える熱狂ぶりが起きたのも、そのひとつの現われだと思う)。
 仮に次の総選挙で民主党が過半数を得て民主党政権が誕生したとしても、それで大きな変化が起きることはないでしょう。もちろん、政権が変わるのですから、それに応じた変化は起きると思います。しかし、人々の期待に応えられるだけの、現状をガラッと変えるような変化までは決して至りません。力ある誰かが現状を一気に変えてくれるという期待はこれまでにも存在し、その点において変化は起こっていないのですから。

 変化は常に小さなところ、些細なことから始まります。小さなところ、些細なことから始まる変化が広がり、それが結果として大きな変化へとつながってゆくのです。
 本質的な変化とは根底からの変化であり、その根底を構成しているのは個々の取るに足らないほどの小さな事象です。それだからこそ、底から突き上げてくる変化でなければ、本質的な変化とはなりえないのです。一部の力ある人間からだけでは、本質的な変化は生まれません。一部の人間が切り開くのは突破口であり、変化のきっかけです。
 変化を望むのであれば、変化を起こそうと自らが動くことが必要不可欠です。それは、まず自らが変わるということでもあります。「天才」や「英雄」といった存在の出現を望み、他者が変化を起こしていることを願っている内は、たいした変化は起こりません。
 政治においても同じことです。政権交代が起き、民主党が政権につけば変わるなどと、変化を起こす主体を他者に期待している内は本質的な変化は生じません。他者が変化を起こしてくれることを期待しているのでは、その他者が期待している変化をもたらしてくれなければ、失望し、絶望し、結局、元に戻るか、同じことが繰り返されるかするだけです。
 しかし、自らが変化を起す主体として動き、変化を起こす手段として民主党に投票し、その結果として政権交代が起こったのならば、そのときは本当の変化の端緒が開かれます。自らが変えようとしていたのであれば、仮に自らの意思を託したものが期待に反しても、再び変えようとすることができます。
 もちろん、そこでも多少の失望感は味わうかもしれませんが、他者に期待を寄せるのではなく、自らが変化を起こす主体となっての行動であれば、自らの間違いを自ら正し、やり直すことが可能です。しかし、変化の主体を他者に委ね、他者が変化を起こしてくれることを望んでいるだけでは、ダメだったときは失望感を味わうばかりで、次にできることと言えばせいぜい期待の新たな預け先を探すことぐらいで、それが見つからなければなす術ナシ、絶望してオシマイです。
 長きにわたって作られてきた政治風土というものは、1回の選挙でガラッと変わるものでありません。汚く淀んだ沼の水をきれいにしてゆくには、水通しを良くし、何度も何度も水を入れ替え、底に溜まったゴミやヘドロを掻き出し、沼の内部はもちろん、その周囲の環境も整えてゆかなければなりません。それは誰かがやってくれるものではなく、まず自分が行なってゆくことです。そうしなければ、決して変わることはありません。

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法人税とか消費税とか
[村野瀬玲奈の秘書課広報室] ...続きを見る
ろーりんぐそばっとのブログ
2009/04/01 21:49

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